朝、玄関の前に立つとスーッと無人のクルマがやってきてドアが開く。乗ると勝手に目的地へと走り始め、予想どおりの時間に到着する。

今、実証実験などでよく見る「自動運転」と比べると、少し先の未来に見えるかもしれない。だが、既に基礎技術はできており、ひとたび自動運転の時代に入れば、あっという間に実現する未来だ。

ここで、もうちょっと先の未来を想像してみよう。寝ていてもドア・ツー・ドアで移動できる自動運転車の価値に人々が気づき、利用者が半分を超えた頃の未来だ。

おそらくネットではこんな議論が出始める。

「高速道路を走るクルマが自動運転車だけになれば、時速数百キロでも前の車と同じ車間距離を保って安全かつ渋滞無しの隊列移動ができ、日常生活圏が何倍にも広がるのに…未だに一部の人が人力運転車に固執し続けるからそれができない…」

人力運転車は煙たがられはじめ、やがて、政府も、国際競争力や安心・安全の観点から、人力運転車が早くフェードアウトするように便利な自動運転車専用レーンを設けたり、税制優遇措置を取り始める。

そしてついに「道ゆくクルマはすべて自動運転車」という時代がやってくる。人力運転車は、かつての人力車と同じように過去の遺物となった。乗馬場の馬のように趣味の人がスポーツとして楽しむだけの存在だ。

この頃には人々のライフスタイルどころか、街づくりも自動運転社会に合わせた再創造が始まっている。何せ移動するのは人間の側だけとは限らず、行き先となっているはずの施設やイベント側が利用者の元へと自動運転してくるケースも増えているのだ。

同時にVR(仮想現実)の技術も発展していたため、そもそも「移動」は必要なのか? という疑問を呈す人もいる。

人の感性を生かすために技術を進化させる

確かに世の中がすべてビッグデータに基づいた、最も魅力的なパターンをそこかしこに複製した世の中になってしまったら、おそらく移動は不要で、すべてVRで事足りることになるだろう。

だが、だからこそ我々は、これからそうならないようにビッグデータ信仰に争って、それぞれの地域がその地形や歴史風土、そこに住む人々といったユニークな価値を元に個性を最大限に発揮する世の中をを築いていくのだと筆者は信じたい。

パソコンの生みの親、アラン・ケイ博士の「未来を予測する最良の方法は、自らそれを発明してしまうこと」という有名な言葉があるが、我々は未来の子孫が生きる希望を持ち続けうる未来、美しい未来とは何かをしっかり多様な視点で議論を重ねながら、高潔な志を持って、その方向にテクノロジーの発展を誘導していく必要がある。

それをしないで、ただ経済合理性やテクノロジートレンドの成り行きに任せてしまうと、その先に浮かび上がる未来はディストピア(絶望的な未来)であることが多い。

今日、自動運転の話をする時、我々は今の世界の状況や、今、既に実現しているテクノロジーを起点に物事を考えてしまいがちだ。

だが、環境のことを考えても、我々はあまり短期視点の行き当たりばったりで、試行錯誤をしながら未来を作る余裕はない。

そして、しっかりと高打率でユートピアな未来を作るには、多くの人が共感できる「未来のビジョン」を多様かつ長期的な視点で徹底的に話した上で描き出し、力を合わせて、科学技術の発展をそこに近づけていくのが良いと思っている。

サイボーグベンチャー、MELTINではサイボーグが当たり前になった数十年後の未来のビジョンを哲学者や文化人類学者を交えた多様な視点で徹底議論し、現在からそこに至るまでの現実的な年表を描くバックキャスティングという手法を採用している。多くの人々の生活を左右し得る技術の方法では技術任せにせず、こうしたビジョンドリブンな手法をとることが理想だと筆者も思う